歴史


移動演劇さくら隊殉難碑


さくら隊について

さくら隊は第二次世界大戦中、新劇団が強制的に解散させられた後、内閣情報局によって作られた移動演劇隊のひとつです。一九四五年三月一〇日の東京大空襲のあと、大都市での公演は不可能となり、中国支部の置かれていた広島に常駐することになりました。


 一九四五年七月六日の益田での公演を皮切りに、島根県と鳥取県の八カ所で十回の公演をしたさくら隊は、七月十六日に広島に帰って来ました。八月六日の朝、さくら隊の宿舎には九名の劇団員がいました。朝食は朝八時前後と決めてあり、その日の朝食は芋雑炊に小芋の煮付けと漬け物だったようです。一瞬の閃光とともに崩れ落ちた宿舎に押しつぶされた九人。
 島木つや子、笠絅子、森下彰子、羽原京子、小室喜代の五人はおそらく即死だったのでしょう。小室喜代の夫、槙村浩吉が焼け跡で小石のように丸くなった骨を五人分拾い集めています。

 

 宝塚出身で、映画「無法松の一生」でも有名になった園井恵子と、新劇俳優薄田研二の息子、高山象三は、怪我もせずに神戸まで逃げ延びましたが、二人とも、「熱い、熱い」と言い続け、前後して悶絶のうちに亡くなりました。


 東京までたどり着いた仲みどりは原爆症が現れ、東大病院で原子物理に詳しい都築博士の手で治療を受けましたが、まもなく亡くなりました。「原子爆弾症第一号」として注目された彼女の肺と骨髄の一部は今でも東大病院に保存されています。

 

 そして、当時、「新劇界の団十郎」と呼ばれていた丸山定夫。彼は最初、呉の手前の鯛尾に収容されていましたが、帰郷していた槙村浩吉と駆けつけた演出家、八田元夫の手により、宮島の存光寺に移されました。十日間、高熱、歯茎からの出血、血尿、激しいしゃっくりが止まらないなどの症状に悩まされました。彼は、敗戦の翌日、自由な演劇活動ができる時代が来ることも知らずに亡くなりました。四十四歳でした。

 

 原爆投下から六年後の一九五一年八月、中国新聞社芸能記者の人たちの手で、「丸山定夫、園井恵子追慕の碑」が、白いペンキ塗りの質素な木の碑として建立されました。その後、一九五五年八月に広島で開かれた第一回原水爆禁止大会で、亡くなった九人の劇団員を慰霊する碑の建設が劇団俳優座の永田靖氏らによって新劇人に呼びかけられました。建設に当たっては、徳川夢声、八田元夫、山本安英の各氏が奔走し、一九五九年八月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術座の六劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって「移動演劇さくら隊殉難碑」が建立されました。